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日本人の食と病気の変遷あれこれ By 豊岡 倫郎 氏 2022-12-26 

1.長寿国の日本はどうして生まれたのか

2013年12月に日本の和食が「日本人の伝統的な食文化」として、ユネスコ無形文化遺産に登録された。世界で長寿国として、一、二位を争っている日本には、伝統的な和食が世界に認められたからだろう。そこで日本人の食の歴史を振り返ってみて、温故知新としたい。

2.食と病気の歴史

1)縄文時代の日本最古の遺跡

日本列島に人が住み始めたのは、島根県にある遺跡から12万年前頃の石器が見つかっている。

これが日本最古の遺跡と云われている。縄文人が大陸から日本に渡来したのは、1万8千年前から3万8千年前という。その頃の代表的な遺跡に青森県の三内丸山遺跡がある。主食はクリ、クルミ、ドングリなどの木の実と魚介類であった。人口は約26万人くらいだったらしい。

2)弥生時代に稲作の伝来

縄文時代に續き、弥生時代が紀元250年頃まで続くが、稲作はこの時代に九州から、近畿、東北地方に広まっていった。人口は約60万人位と推測されている。有名な遺跡に吉野ケ里遺跡、登呂遺跡がある。

紀元前221年に中国では秦が中国を統一して、皇帝として始皇帝か登場した。その時期に噂として広まっていたのが、「東の海に浮かぶ蓬莱島に不老不死の薬を持つ仙人が住んでいる」と。始皇帝は家臣の徐福に命じて、仙薬を探しに行かせたのである。結論として徐福は中国に戻らなかったようであるが、日本には今も徐福伝説が至る所に残っている。佐賀、鹿児島、宮崎、三重、和歌山、山梨、京都、愛知県など沢山あり石像まで建てているところもある。

3)古墳時代(西暦250~)

魏志倭人伝は西暦290頃に書かれたもので、そこには、この頃には稲作をして、魚や野菜を食べていたと記されている。邪馬台国の卑弥呼の存在の記述がある。なお邪馬台国がどこにあったかは今も謎のままである。倭の人は性格が折り目正しく、大変長生きで80歳あるいは100歳まで生きる、と書いてある。当時の日本人が長寿であるという記述は、五世紀に中国で編纂された「後漢書」にも書かれているという。

鉄製の農具が発達して、米以外にもアワ、ヒエ、小麦も作られた。外に小豆、大豆、カボチャ、大根、瓜なども栽培された。結核が弥生時代に大陸から入ってきて、この頃の人骨から多く罹った人がいたことが判明した。538年百済から仏教伝来。

4)飛鳥時代(592~710年)

645年大化改新。天然痘が大陸から入ってくる。鍼灸,按摩、呪術が大宝律令に記載されている。マラリヤ、ハンセン病、チフス、赤痢など発生していて加持祈祷盛んになる。約60種類の薬草が使われる。675年に天武天皇が「肉食禁止令」を発布する。殺生を禁じる仏教の教えによるものだったのか。ただし野生のイノシシやシカは食べることが出来た。700年文武天皇が税として、蘇(そ)作り命じる。これは乳汁を加熱濃縮させた乳製品で、薬や神饌としても使われた。

5)奈良時代(710年~793年)

わずか83年間だが、天然痘が大流行し、大仏や国分寺を建て国家の安寧と民の幸福を祈願した。飛鳥時代からこの時代の貴族は牛乳を飲んでいたし、白米を食べて脚気になる人もいた。

奈良時代の医療は、仏教伝来と共に僧侶が、韓医方や随・唐医方の医学知識をもたらしたことで、僧侶が医師を兼ねていた。鑑真や弓削道鏡も朝廷内で医療に才能を発揮している。

6)平安時代(794年~1185までの約390年間)

808年に日本最古の和薬の処方集「大同類聚集」全100巻が典薬頭の阿部真貞と侍医の出雲広貞によって選集された。これは全国各地の神社や豪族に伝わる処方を症状別に書いたもの。更に 984年に日本最古の医学書、「医心方」(いしんほう)が編纂された。これは宮中医官であった鍼博士の丹波康頼が其の頃日本にあった203種の中国の文献から選集したもので、全30巻、医師倫理・医学総論・各種疾患に対する療法・保健衛生・養生法・医療技術・医学思想・房中術などから構成されている。漢文で書かれていて、全30巻から成る。この本は現在国宝となっている。おでき、腫れものの治療にヒルを用いていた記述がある。この時代、寄生虫のサナダムシがお腹に湧く人も多かった。なお俳優の丹波哲郎は丹波康頼の末裔に当たる。これら二つの選集を槇佐知子女史が独学で全訳している。

時の太政大臣として権勢を振るった藤原道長は糖尿病を患った時に、のどが渇き、葛根を飲んでいたという。しかし病気が進行して、目が見えなくなり、10年あまり苦しんで亡くなったという。源氏物語の主人公のひとりは、藤原道長がモデルといわれている。当時の貴族たちの最期の拠り所は信仰で、やたらにあちこちに仏堂が造営された。そして活躍したのが加持祈祷を行う陰陽師だった。占いを行う人も朝廷の役人として認められていた。貴族の食事は贅を尽くし、接待料理として大饗料理が形成されたが、下級武士は品数が減り、一般庶民になると、質素で麦、アワ、キビ等の雑穀が主食の一汁三菜だった。平安時代の後期になると、天然痘、マラリヤ、赤痢流行する。平清盛がマラリヤで高熱を出して亡くなったようだ。

7)鎌倉時代(1200年代)

この時代に入ると、貴族社会から武家社会に変わって、大陸から留学していた僧侶たちが医学資料を持ち帰り、仏教が大衆に広がり、僧侶が医師として活躍した。武家出身の僧の梶原性全は大陸の医学書を基にして、全50巻からなる「頓医抄」(とんいしょう)を書いている。その中では、「病気を怨霊や神仏のせいにはしていけない、必ず理屈がある筈で、体の構造と働く仕組みを理解する必要がある」と。更に「慈悲の心を持って行えば、たとえ技術がつたなくても、効果があるものだ。欲深く、いつくしむ心のない者が広い知識を持ち、特効薬を山ほど用いても、効くはずがない」とも書いている。

もうひとりこの時代に、鎌倉極楽寺の僧の忍性(にんしょう)がいる。赤痢が流行したこの時代に、病人や貧しい人、孤児らの救済に奮闘した人物で、日本の仏教史上でもっとも衆生救済に尽くした僧とたたえられている。

他にも栄西がいる。栄西は中国に二度留学して、日本にお茶を広めたことで有名であるが、「喫茶養生記」を書いている。この本の中で「健康の基盤は5つの臓器、即ち肝、心、肺、腎、脾がバランスよく働くことである。そのためには、夫々の臓器に対応した味を持つ食べ物を適切に摂取することが大切である」と、食養生を重視している。禅僧による精進料理が広まった。また武士による本膳料理が形成された。これは料理を乗せた一人用の善がいくつも客前に並べられるのが特徴で、二汁五菜が定型で贅沢なものだった。

8)室町時代(1300年代) 今まで一日の食事の回数が2回だったのが、3回になり、品数も増えてきて、主食は玄米の炊いたものとおかずは魚類や野菜の煮物、漬物、梅干しなどを食べていた。味噌や醤油も作られるようになった。昆布だしや鰹節出汁、酢が使われるようになった。大陸との貿易も盛んになり、砂糖が入手しやすくなり、和菓子が作られた。

1467年京の都で応仁の乱がおこり、11年間続き、当時地震、台風、噴火、大飢饉が連続的に起こり、京都だけで8万人以上が亡くなっている。

次回へ続く

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